文芸同人誌『たまゆら』書きたいことを書きたいように

文芸誌『たまゆら』は30年以上続く老舗の文芸同人雑誌です。エッセイ、詩、俳句、短歌、小説、紀行文など、好きなジャンルで好きなように書く表現の場です。あなたの書きたい気持ちを活字に。

学校に行きたくても行けない子どもたち 『たまゆら』の作品から

 

 

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 学校生活に馴染めず不登校に苦しむ児童生徒がいる一方、学校へ行きたくても行けない児童生徒もたくさんいる。親の育児放棄などで弟妹らの面倒をみなくてはならない子どもたちだ。小誌『たまゆら』でも家庭と学校で起こっているこの問題をテーマとした作品が度々出稿されている。
 最近では119号の森ゆみ子さんの「ばあちゃんの匂い」だ。
 主人公・千恵は心の相談員として中学校に週二日ほど勤務する。育児放棄している母親に代わって弟たちの面倒を見ている中学三年の奈波を気にかけている。学校も事態を掴んでいるが母親が変わらない限り無理だと匙を投げている形だ。
 千恵は何の変化も与えられない自分に悔しい思いを募らせる。奈波本人は「弟たちは可愛いんです。だからいいんです」と言い、千恵は切なさを覚える。
 ある日久しぶりに登校した奈波は千恵に身体に委ね抱きついたまま離れない。「先生は、ばあちゃんの匂いがする」と言う。好きだった自分のおばあちゃんと同じ匂いだ、安心の匂いだと。千恵はそんな奈波を愛しく思う。
 現状を打開できないのかと千恵は教頭に詰め寄るが「相談員の先生は相手から相談の要求があって、それに応えるのが仕事ですよ」と拒絶される。
 昨日の新聞(京都新聞夕刊10月23日)に、「ヤングケアラー」として家族の世話がある生徒の実態調査を行った記事があった。
 さいたま市教育委員会の調査で、6月、市立中学と市立高校など生徒34,606人にアンケートを行ったところ世話をしている家族がいると答えた回答は中学生で1,273人で4.51%に上った。高校生で0.69%の14人だった。「世話を必要とする家族」として最も多く挙げたのはきょうだい(631人)、母親(513人)、祖母(317人)だった。
 高校生になると減るのはなぜだろう、母親の世話というのはひょっとすると母親が病気等で動けず育児が生徒に回ってくるということを裏付けているものなのだろうか。生徒の義務教育を守るために当局は踏み込めないのだろうか、疑問は尽きない。
「ばあちゃんの匂い」はこの社会問題を小説にして提示し、なおかつ穏やかな文体で迫った秀作だ。
 ※119号のバックナンバーあります。
  ご希望の方はコメント欄に住所、氏名、電話番号をご記入ください。本誌代、送料込
  680円です。

「レティシア書店」さん(京都市中京区)にたまゆら121号を置いていただきました

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京都市中京区高倉通り二条下ルの「レティシア書店」さんにたまゆら121号を置いていただきました。店主の小西さんは目利きの鋭さが光る。チョイスのよさが店の雰囲気を引き締めています。

book-laetitia.mond.jp

 


たまゆらの冊子にもかわいく帯をつけました。手にとってもらいやすいかな。

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立ち寄ったついでに岡潔氏に関する本を買い求めました。岡潔氏(1901〜1978)は日本の数学者哲学者。多変数解析関数論(なんのこっちゃ)において高い業績を残した。近年改めてその足跡が見直されてる。最近では気鋭の独立研究者・森田真生さんが岡の足跡をたどっている。森田さんは岡氏の思想や言葉をベースに新たな数学論、言い換えれば数学の探求から導かれる哲学を追求している。
『萌え騰るもの』はなんと岡潔さんと司馬遼太郎さんの対談。これは滅多にというかこの小冊子を読むことでしか体験できない知的冒険だ。時間を逆戻りさせ二人が生きた時代に私も身を置けた感激。本を読むとはこういう二大巨頭の対談を活字で読むこと、また時間的逆回転体験ができることが醍醐味だ。

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ホホホ座さんに「たまゆら」121号を置いていただきました

京都市左京区浄土寺のセレクトブックショップ「ホホホ座」さんに「たまゆら」121号を置いていただきました。
銀閣寺から北白河通りをずっと下って真如堂のある黒谷の辺り。哲学の道など近くに立ち寄る機会があればぜひこの書店へも。稀少本、ミニプレス、古書と出会いがあります。

 

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hohohoza.com


ちなみにこの本もここで買いました。『喫茶店松本隆さんから聞いたこと』

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店主の山下賢二さんが古くから付き合いのあった作詞家松本隆さんとのインタビューをまとめたもの。
「孤独というのは、結構な荷物。いちばんコントロールするのが難しい敵かもしれない。どんなに偉くなっても、金持ちになっても、目の前にいる」(51ページ)。歌謡曲の大家の言葉だけにひときわ印象深い。

ホホホ座に是非一度……。

 

読書の思い出 りんごがいいですか、それとも林檎ですか

f:id:abbeyroad-kaz:20210920053249j:plain松本隆さんから喫茶店で聞いたこと」を読んで 

 名作詞家の松本隆さんが、松本聖子さんに「ガラスの林檎」の詩を書いたとき、盟友細野晴臣さんが作曲したのだが、いよいよ発売の段になって、レコード会社側が
「タイトルの『林檎』という漢字が難しすぎて子供には読めない。カタカナにしてくれ」
と頼んできた。
 松本さんは「読めないんだったら、これで読めるようになりますから』って突っぱねたそうだ。「松田聖子が『ガラスの林檎』で一位をとれば、小学生が覚える。それだけでもすごい教育になるんじゃない?」と松本さんは語っている(「喫茶店松本隆さんから聞いたこと」67ページ 山下賢二著 夏葉社2021年9月15日第2刷発行)。
 
 ところで難読漢字というものがある。画数が多かったり字の格好から推測つかないような漢字である。昆虫の名前なんかそうだ。例えば蟷螂(かまきり)や蜉蝣(かげろう)など。草花もいっぱい?が付きそう。紫陽花(あじさい)銀杏(いちょう)はまだポピュラーなほうだろう。猫じゃらしにも使われる狗尾草(えのころぐさ)は活字では滅多にお目にかからない。風情のある落葉松(からまつ)も山歩きが好きな人でもなければ難しいかもしれない。日常性のある字でも愛猫(あいびょう)や釣果(ちょうか)吹鳴(すいめい)はすんなり読めない人もいるかもしれない。
 これは難読漢字ですよ、と文科省が分類した漢字集があるのかどうか知らない。これも個人差だろうが、普段から読んだことがなかったり使わなかったりする漢字は難読ということになるんだろう。
 私はときどき同人雑誌などに文章を書いている者だが、書いている途中に漢字にしようかどうしようか迷うことがよくある。長い間のうちにこれは漢字では書かないと癖にしてしまっているのも多く、知らずと難読漢字を増やしてしまっている。しこうして、ここ一番というときに限って漢字が思い出せず辞書を繰るということにあいなる。
 
 自分はこう書く、この漢字は使わないと決めることは誰でもできる。例を上げると説明的あるいは伝聞形式の、「事件Aのその後の状況は証拠は集まっていないという」は「言う」とは書かないし、「こういったことはしてはいけない」は「事」とは書かないようにしている。文法的な理由よりも「言う」や「事」を連発すると文章に「言」や「事」だらけになってしまって見苦しいからだ。また「ぼくはそうこたえた」も「答えた」も「応えた」も使い分けをせずもっぱらひらがなだ。実はどっちがどっちか決定的な意味の違いを勉強していないからで、そのお粗末さに反省しきりです。
 大家になれば縦横無尽に漢字とひらがなを使い分け引き締まった文章を書いている。作家によってどの字、どの漢字をどう使うかはその人次第。最もふさわしい文字をそこに当てはめて文意を掘り下げるのが作家魂だ。ただ難しい漢字を使えばよいということではない。神は細部に宿るというが、漢字によっては作品全体をぶち壊してしまうようなこともあるから要注意である。
ガラスの林檎たち」は広く「林檎」って漢字でこう書くんだと知らしめた。その事実は大きい。暗記一辺倒の学習では気が重い。教師にせっつかれて覚えた漢字ではなく楽しく歌って覚えたものだから一生忘れない。この歌の大いなる付加真価である。

歌詞は恋人に抱かれて心臓ドキドキの乙女心を林檎に託した、それもガラスの。聖子ちゃんの透き通った歌声が響いてきそうである。
   
   ♪蒼ざめた月が東からのぼるわ
    丘の斜面にはコスモスが揺れてる
    目を閉じてあなたの腕の中
    気をつけてこわれそうな心
    ガラスの林檎たち

 

 

第9回文学フリマ大阪に行ってきました

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◎第9回文学フリマ大阪
9月26日大阪・天満橋のOMMビルで開かれた文学フリマ大阪に行ってきました。純文学系からエンタメ系、ファンタジー幻想文学、歴史古典、エッセイなどなど集った文芸同人誌や愛好会、大学のクラブらはざっと350以上。それぞれがブースに陣取り冊子を手に続々と来場するファンにアピール。まだまだ活字は捨てたものではないという感を強くしました。新しい書き手の募集にこの催しに参加しない手はない。

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来場者は目当ての団体や好みの雑誌や書籍を探してブース間を回遊。

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滋賀県大津市で文芸エムを出版する原浩一郎さん。
文芸エムはこのほど全国同人雑誌協会新人賞を受賞。同誌は投稿により誌面を作り年4回発行している。原さん自身は文芸思潮主催の銀華文学賞で最優秀賞を2回も受賞した優れた作家。
同人誌の合評会のあり方や編集の方向性についてお話をさせていただきました。

bunfree.net

読書の思い出 サイゴンから来た妻と娘

日々の暮らしのあれこれが読書の思い出と結びつくことがあります。ああそうだった、と読み返してみるのも楽しみかも。 


サイゴンから来た妻と娘 

アフガニスタンの首都カブール陥落の模様をテレビで見たとき、真っ先に思い出したの
サンケイ新聞の特派員だった近藤紘一氏(故人)が、1975年の南ベトナムの首都サ
イゴン陥落の瞬間を打電した第一報である。
サイゴンはいま、音を立てて崩壊しつつある。つい二ヶ月、いや一ヶ月前までははっき
りと存在し、機能していた一つの国が、今地図から姿を消そうとしている。信じられない
ことだ……」とこのノンフィクションの冒頭、近藤氏は緊迫の数時間を活写した。
 物語はベトナム人の妻と娘を日本に出国させ東京で始めた3人での暮らしに移る。同じ
アジア人同士の、ベトナムと日本の衣食住の、また政治や宗教観のカルチャーギャップ、
そして生きることに対する考え方の違いを優しく細やかに描いた。
 私はこれを、カンボジア難民を支援するNGOのスタッフとして、タイで暮らしていた
30年ほど前に東北タイの駐在事務所で読んだ。東南アジアの分厚い大気のもと同じ空気
を吸っていたせいか、どうしても次の一節が今でも頭から離れない。
「東南アジアの社会は一般に『軟構造』の社会だといわれる。近代国家の実質をなす各種
の制度や秩序が、まだ末端の日常生活を管理しきっていないということなのだろう。(中
略)
本来は便法であった、これら窮屈なもの(近代国家を支える制度とか秩序)が、次第に絶
対化され、独自の生命力、支配力を持ち始める。この結果、組織はそれによって、表面的
にはダイナミズムを発揮するだろう。モーレツが美徳になれば、国民はそれが実際に自己
の人生にどれほど利するか考えず、やみくもに働く。(中略)その便法が一人歩きするの
に比例して、もともとはその便法(制度や秩序)の主人であったはずの人間の自由な心は
発露の場を失い、萎えていく」
 私は難民救援のかたわら国境地帯に出向き寒村の開発支援も行っていた。養豚養鶏なん
でもいい、ひとつのプロジェクトを実行しようとしてちょっと手違いがあったとする。タ
イの人々は概して「マイ・ペン・ライ(気にすることないよ)」とおおらかに構えること
がままある。ときにこっちが「えっ?」と考え込んでしまうようなことでも平気だ。
 細かいことにいちいち拘泥しないそんな気質に対し「だから民主主義が機能しないんだ
、開発の遅れた農村があり人々が貧困に喘いでいるんだ」などと目くじらを立てたものだ

ジャパン・アズ・ナンバーワン」と日本経済は力を謳歌し、バブルに突入していた浮か
れた時代だった。愚かにも私は世界で一、二の経済力を誇る日本人だという驕りがあった
のだ。タイの村が貧しいのは几帳面に働かないからだと決めつけていた。
 2020年頃からタイでは反政府運動が再び盛り上がりを見せている。これまでタブー
視されてきた王政まで踏み込み、国の体制そのものが歴史的転換点を迎えている。政治の
変革を求めて人々がシュプレヒコールを上げる姿をテレビで見て、タイの市民の方が日本
人よりよっぽどパワフルだと感じずにおれない。
 日本にはもう社会も経済も国際競争力で誇れるものはごくわずかしかない。人口減少、
産業の空洞化から長く抜け出せず、ここへ来てコロナ禍、医療崩壊、所得減少、所得格差
に拍車がかかる。こうした負の面が報じられ、事実、国の将来が危ぶまれる状況に陥って
いても、私達日本人は個人個人では反感を持ち不満をSNSでぶちまけるが、街路に出て、
目に見える形で運動を展開し意見を表明する場面ほとんどない。おとなしい。私自身も。
近藤氏が言うように「人間の自由な心は発露の場を失い、萎えていく」。そういった状態
に私達はあるのかも知れない。
 

 「サイゴンから来た妻と娘」近藤紘一著 文春文庫1988年 大宅壮一賞受賞作

第2回『たまゆら』同人誌寸評 

小誌の顧問佐々木国広が寄贈された同人雑誌の中から作品をピックアップして感想を述べています。これまで掲載されたものを順を追ってご紹介します。

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★『たまゆら』118号(令和2年8月30日刊)」から


☆瀬戸みゆう「〈ヒト・マウス〉キメラ」(『半月』第Ⅰ0号)

「わたし」は血液癌治療のため点滴投与の予約を取ってあり、新幹線で新岩国駅から神戸へ行かねばならなかった。車で駅へ急ぐも豪雨による通行止めに遭い、遠回りせざるをえなかったが、発車時刻に間に合うかどうか、いたく気を揉むハメになった・・・。

 奇異なタイトルだが、マウスの体内で作られた成分、キメラ(怪物)が悪玉細胞を攻撃するというイメージが浮かぶ。一種の癌小説といえるが、ストーリーに通行止めという障壁ポイントを設けてあり、主人公の運転を急ぐドキドキ感が五拍子のように響いてくる処がミソだと読み取ったのだが、作者の狙いはこれだけだったのかどうか・・・。

☆錺雅代「オクラの棘」(同誌)

 舞台は二階建ての共同アパート「山田荘」。地方から引っ越してきたはずきは同じ二階の幸子と親しくなる。お互いオクラにちなむ思い出話を交わしたりするが、或る時、幸子が男とブランコに興じていた出来事を、昔飲み屋をしていたという管理人のおばさんに漏らすと、彼女はその男の囲われ者だと教えられ「オクラの棘に触れた痛さ」を覚えた。その管理人のおばさんからちょっとしたミシン仕事を頼まれ引き受けた処、お礼にと玉子の煮ぬきをくれて、胸がポカポカと温かくなった・・・。

 さりげない日常事を連ねて、ほっこり味で締めくくる、小気味のいい市井物なのだが、幸子のキャラクターが面白そうで、囲われ者の行末なり末路がもっと知りたくなる。

☆秋吉好「松永軍記」(『異土』第Ⅰ8号)

 世に梟雄と評される松永久秀伝が完結した。歴史上の人物、とりわけ英傑、奇人に伝説や俗説は付き物で、とかく作り話がもてはやされる。信貴山城での最期の場面で、彼が名物の茶釜「平蜘蛛」を割って爆死したとの逸話が最も有名である。だが、本編で描かれた落城の顛末は、もはやこれまでと城内に荏胡麻油を撒いて火を放ち、腹を切るという、ごく真っ当なものになっている。作者はいささかも俗説などに惑わされることなく、あくまでも真相に迫らんと筆を抑えてあり、むしろ冷徹なほどである。信長の雑賀攻め、多聞山城の破却、信長包囲網、能登の争乱、信長による大和の松永党潰し、松永の籠城戦、そして城砦炎上・・・。作者の筆致は精細を極め、間然するところがない。実像は、恐らく三好長慶に仕えた忠臣で、勇猛なる能吏だったのではないか、偽作者らに利用されただけだと思われる。

 尚、作者は周到にも本編執筆に際しては興福寺の英俊による「多聞院日記」を下敷きにしたと付記している。できれば諸城の布陣図でも添えてあればありがたいのだが・・・。ちなみに久秀の肖像画をよく見れば、瞳は意味ありげに赤く塗られ、唇は厚く、前歯が二本突き出ていて、頬骨は張っている。

 ☆月野恵子「月明り、青い咳する」(同誌)

 住宅すみたく顕けん信しんなる、夭折の自由律俳人をご存知だろうか。作者とは同郷の岡山出身で、その生涯が「ずぶぬれて犬ころ」と題され映画化されたとの新聞記事に接して彼に関心を抱き始めたという。顕信は昭和三十六年生まれ、とりわけ尾崎放哉に傾倒し、西本願寺で出家、白血病を患い、離婚後は俳誌『層雲』『海市』に入会、二十五歳で歿。詠まれた句は全二百八十一、死後、句集『未完成』が刊行された・・・。

 作者は彼の短い一生を丹念に辿り、諸氏の評価を紹介、作品鑑賞を試みていて、闘病句が多いけれども湿っぽくなく、鋭い感性と独特な視点が胸を搏つ、と感想を記している。筆者もやはりタイトルに掲げられた句に注目、読点と青が印象的だ。俳句と称するからには、たとえ非定型であろうとも、一つの季語、どこかに断截、内なる音律がなければ一行詩になってしまう。彼の難病と出家という閲歴からして、絶えず死線と向き合いながら、根底には末期の眼と仏性の眼を潜めて詩心を燃焼させたのだ、と筆者は推断した。

☆藤野碧「回廊に吹く風」(『いかなご』第23号)

 美枝子は婦人病で入院し、早々と数人の患者と親しくなる。仮に男だと、そうはいかないだろう。それぞれの事情、抗がん剤治療とか更年期障害、卵巣摘出、談話室で観る映画「シャル・ウイ・ダンス」、外泊、転院などにまつわるエピソードが綴られる。文中に「可能はいつも不可能と背中合わせなのだ」「生命体とは、いかに意識の外で気まぐれな機械のように動かされているのか、と思わざるをえない」との記述が光る。入退院患者同志の出会いと別れ、それに伴なう哀歓の情が交錯する。

 女性ならではの病床記だが、作者の眼はどこか覚めている。所詮は、これもまた一期一会なのだと・・・。

☆佐藤水楊「老女ともだち」(同誌)

 水みお麻は湖南で独り暮らしをする七十歳。或る時、息子の有たもつが紫音と名乗る若い女を連れてくる。彼女は足踏みミシンにいたく興味を示し、それでコスプレ服を縫わせてほしいとせがみ、居候するまでになった。水麻はいつの間にやら母親のような気持ちにさせられ、自分も変身してみたくなってしまう。リハーサルをと試着してみれば、紫音は女戦闘士、水麻は魔女に・・・。

 本編は各章の頭に数字ではなく、短歌を配してある処がユニークで、いわば変身願望小説と称してよいだろう。曰く「老女も時として心のなかは少女なのである」。